『愛の言葉』


 図書館の入り口から一番遠いベンチ。
 その子はいつも、そこにいた。
 折り目正しい白いブラウスに、背筋の伸びた姿勢。
 蛍光灯の明かりの下、膝に大きな本を乗せ、ページをめくっていく。
「ああ、いつもいる子でしょ?
 ちょっと変わってるよね」
 司書のお姉さんも、よく知らないらしい。
 わかってるのは、
 『ほとんど毎日、ここにいること』
 『誰も、声を聞いたことがないこと』
 これくらい。
「借りて帰ることもないから、ほんとに誰とも喋った事ないんだ」
 司書のお姉さんは興味深そうに言う。
 僕は一昨日あった出来事を思い出した。
 少し態度の悪い中学生が、数人集まってあの子の事をからかっていた。
 それでもあの子は喋らず、ただ一度だけ何かをつまむように右手の親指と人差し指を合わせ、広げながら前に差し出して見せた。
 僕は後になってから、それが『きらい』を意味する手話だった事を知った。
「君は、あの子の事ばかり聞くのね。
 ここは本の案内をするところよ?」
 う、そんなつもりはないんだけど……。
「好きなんじゃないの?」
 お姉さんが意味ありげに笑う。
 ―――うん、きっとそう。
 僕は一瞬言葉に詰まったけど、素直に答えてみた。
 お姉さんは呆気に取られた表情になった後、あははと笑ってみせた。


 いつも通りの昼下がり。
 窓の外では、ケヤキが赤い葉を散らしていた。
 あの子はいつものベンチで、いつもの姿勢。
 前に立つと、ゆっくりみっつ数えるくらいの時間の後、顔を上げた。
 僕は借りてきた本を必死に読んで、練習してきた手の動きを彼女の前でして見せた。
 まず自分を指差し、次に親指と人差し指を立ててから、閉じるように前に出す。
 その後、手のひらを彼女に向けた。
 彼女の使う言葉と、同じ言葉で伝えたかった。
 その子は真っ赤になって俯くと、右手を左手の上で立てて、祈るような動作。
 慌てて本を閉じると行ってしまった。
 うまく伝わったのか、それとも全然ダメだったのか、そこはちょっとわからない。
 でも僕はその日、初めてその子の笑った顔を見れたんだ。


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