『あの子の夢』


 水の流れる音で目が覚めた。
 まだ暗い明け方。
 ベッドを抜け出して裏口に出ると、いつか見た女の子がそこにいた。
 朝霧の中、施設の洗い場で身体を洗っている。
 褐色の肌がまぶしかった。
「水、気持ちいい」
 僕に気付くと、その子は悲しげな笑顔でそう言った。
 黒い瞳が印象的だった。
 なんと答えればいいかわからず、僕も笑ってみる。
 身体を拭き終えると、その子はシンプルなワンピースを頭から被り、コンクリートの段差の上に座り込んだ。
 僕はその横で顔を洗う。
「ヒロキ、好き? ここ」
 どうなんだろう?
 聞いていたより、ここでの現実は残酷だった。
 でも、来てみなければわからない温もりもあった。
「たぶん――、好き」
 少し考えてから、僕は答える。
 するとその子は、ちょっと憂鬱そうな顔をして、俯いた。
「ヒロキ、ここ、好きか……」
 ここに来て最初に言われたこと。
 あまり個人と深く関わらないこと。
 出しっ放しにしていた水が、素足の下を流れていった。
「いつか、どこかに――」
 その子はそう言うと、遠くを見つめた。
 当時の僕の語学力では、言葉のニュアンスは汲み取れず、その台詞が何を意味していたのかに気付いたのは、あの子が世話になっていた家を逃げ出し、行方不明になったという噂を聞いた後の事だった。
 今ならわかる。
 あれはあの子のささやかな夢だったんだろう。
 もっと話を聞いていれば、逃げる以外の選択肢を与えてあげられたのだろうか。
 それとも、僕に出来る事なんて、何もなかったのだろうか。
 あの日の事を思い出すたび、僕は少しだけ後悔する。
 あの子は理想とするどこかに、辿り着く事が出来たのだろうか――。


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