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『欲求不満』
今日もその人は、いつもの場所に座っていた。
理学部棟、環境池脇のベンチ。
ボックススカートに低めのミュール。
無造作に羽織った白衣。
足を組んで、背もたれに身を預けている。
片手には文庫本、煙草に不機嫌な表情。
「こんにちは、先生」
私が声をかける。
その人は眉を寄せたまま、視線を上げる。
縁無しのレンズが光を反射した。
そのまま視線は本に戻る。
「無視しないで下さい」
「毎日毎日、ヒマなヤツだな」
「先生もね」
「私はヒマではない」
「ここにいるじゃないですか」
「がああ〜ッ! うるさい!」
本を投げ付けられた。
「どいつもこいつも、教養課程だと思ってナメやがって!
あんなもの採点出来るか!」
私はため息をついて、受け止めた本に目を落とす。
強烈な挿し絵が描かれていた。
「お兄ちゃん、大好き!」
とか言いつつ、小さな男の子が大きなお兄さんに抱きついている。
二人とも汗だくだ。
いや、「汗」ではないな、これ……。
「先生、またこんなの――」
「黙れ。趣味だ」
奪い返された。
「それはそれとして、食事に行きませんか?」
「前から言ってるだろう? ノンケに興味はない」
「でも、欲求不満みたいだし」
「……お前に満足させられるのか?」
「それはどうでしょう?」
「フン」
鼻で笑われた。
「まあ、食事くらいなら付き合ってやらんこともない」
「いつもいつも、素直じゃないですね」
「死ぬか、いっぺん?」
「遠慮します」
私たちは学内を歩く。
とりあえず、第一関門は突破した。でもここから先が大変だ。
その人は、両手をポケットに入れ、気だるげに歩いている。
白衣から伸びる足が眩しい。
私は今日のプランを、もう一度頭の中でなぞり始めた。
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