『あの子の傘』


 静かな雨が降る。
 あの子は一人、縁側に腰掛けている。
 大きな傘を、広げて肩に乗せている。
 私は今日も、声をかけるきっかけを見失う。
 浴衣――なのだろうか。薄手の着物姿。
 白地に水色の花柄模様。
 肩までの髪は、少し濡れているように見える。
 縁側から下ろされた両足は、地面に届いていない。
 黒い傘が、風に吹かれるたびに小さく揺れる。
 視線は庭の垣根を越え、防波堤も越えて、海の彼方で焦点を結んでいた。
 きっと兄の姿を見ている。
 去年の夏、あの子の兄は帰ってこなかった。
 船の残骸が引き上げられ、何日も捜索が続いたが、それ以上は何も見つかることはなかった。
「お兄ちゃんは、お出かけしています」
 あの子は兄の事が好きだった。
 今も、待ち続けている。


 防波堤の下、コンクリートブロックの隙間にその傘は落ちていった。
 ちょっとした風が原因だった。
 あの子は半狂乱になって、その隙間に入ろうとした。
 周りの子供たちは必死になって止めたそうだ。
 兄が帰ってこなかった日から、一度も泣いた事のなかったあの子は、それから数日間泣き続けた。


 静かな雨が降る。
 あの子はもう縁側にはいない。
 あの傘は、兄の物だったらしい。
 兄がいなくなる数日前に、あの子が借りたのだそうだ。
 私は母から、その話を聞いた。


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