『ミュート』


 私は今日も、あの子を待っている。
 午後の音楽準備室。ハノンを弾きながら。
 狭い部屋の中、縦型ピアノの抑制された音が響く。
 部活が始まるまでの数分間、私はここで指をあたためる。
「どうかした?」
 先週の会話がよみがえる。
「ん――、別に」
「――あたし」
 あの子は私を上目遣いに見る。
「ナオに見つめられるとドキドキする……」
 そう言って、あの子は恥ずかしそうに俯いた。
 不意にあの子がドアの前を通り過ぎる。
 私は視界の端でそれに気付く。
 背中まで届く細い髪。
 頼りない肩。
 手に提げたバイオリンケース。
 隣の室に入っていく。
 そこには先輩がいる。
 私はソフトペダルを踏む。
 音合わせをしながら、二人は他愛のない話をするだろう。
 先輩はいつもの調子で喋り続けるだろう。
 あの子はバイオリンを持ったまま、困ったような笑顔を見せるだろう。
 その後、二人はキスをして、部室に向かうのだろう。
 私は新しい楽譜を取り出し、譜面台に載せた。
 笑い声が聞こえる。
 私は鍵盤に指を載せる。
 ゆっくりと、ソフトペダルを緩める。
「うそつき」
 私は雑音を打ち消すように、ピアノを弾き始める。


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