『無声』


 その子は高原をひとしきり走ると、踊るように振り向いた。
 ワンピースの裾が広がる。
 強い日差しに身体の線が透けて見える。
 歯を見せて笑った。
 喋れない子。
 それがこの子をターゲットとして選んだ理由だった。
 親から受けた恨みを、その子供に向けるなんて最低だ。
 だが、その方法しか俺には思い付かなかった。
 妹は活発で、誘拐するにはリスクが高すぎた。
 この子なら、騒がれる心配はない。
 そんなふうに色々考えた末の行動だったが、今となってはどうでもいい。
 金の受け渡し場所に、この子の親は現れなかった。
 本当に誘拐したのか?
 声を聞かせろ。
 姿を見せろ。
 様々な注文ではぐらかされた。
「わたしはいらない子
 この子が昨日、俺に書いて見せた言葉だ。
 そんな事があるだろうか?
 書いた後、この子は俺に笑顔を見せた。
 雲が動いて周囲に影が落ちる。
 気付くと姿が見えなかった。
 俺は慌てて走り出す。
 草原の終わり、切り立った縁にあの子が立っていた。
 彼方の空を見つめている。
 その目には希望も絶望もなかった。
 不意に俺に目を向けると、その子の口がゆっくりと動いた。
「ありがとう」
 たしかにそう動いた。
 空を見ながら、切り立った斜面に足を踏み出す。
「死ぬな!」
 アホか! そんなので終わらせられるか!
 俺は走った。
 広がるその子の長い髪。
 離れていく手のひら。
 指先から手繰り寄せるように、俺はその手を握り締めた。
「お前は俺と生きていくんだよ!」
 腕を引き、身体ごと受け止める。
「俺に誘拐されたんだから、言う通りにすればいいんだ!」
 何度も綺麗だと思った瞳を睨んだ。
「わかったか!?」
 その瞳から一粒涙がこぼれた。


(661文字)