『煙草』


「久しぶり」
 錆びた金網に身体を預けて、煙草に火を点ける。
「よう」
 チエがくわえ煙草で会釈する。
「子供のくせに、また吸ってるのか」
「ばーか、成長してるっつーの!」
「まあ、そこだけはな」
 私が指差すと、街灯の薄明かりでもわかるくらい、チエの顔が赤くなった。
「ばッ! 死ね!」
 チエが手を振り上げる。
 私は口元を綻ばせながら、掌で拳を受けた。
 アスファルトを駆け抜けるタイヤの振動が、遠くから伝わってくる。
「――この前は、どこまで話したっけ?」
 金網の向こうに視線を落として、チエがつぶやいた。
「そう……、ギターを見せてもらったとこか」
「ん――、」
 チエが煙草の灰を地面に落とす。
「あたし、小五だったよ」
 チエの瞳から光が消える。
「その時に習ったんだ。
 ギターと――、それからセックスをね」
 金網に両手をかけて、チエは真っ暗な空間を見つめている。
「ギターを抱えたまま、キスしたんだ」
 体重をかけたせいで、金網がギシギシと音を立てる。
 チエは淡々と話し続けている。
 初めての体験。
 生々しい心境の移り変わり。
 その後起きた、様々な問題。
「でもあたし、本当にあの人のこと好きだったんだ」
 暗闇を見つめていたチエの視線が移り、私の目を見る。
「今でも、悪い事だとは思ってないよ」
「そうか」
「あの人がいなかったら、ギターは弾いてなかったと思うし。
 ただちょっと、周りの子より早かっただけ」
 私は短くなった煙草を金網に押し付けた。
「わかった。それは先方にも伝えるようにしよう」
 チエは少し寂しそうな表情をする。
「そんな顔をするな」
 私はチエの頭に手を乗せる。
「この前の事、考えてくれた?」
 この前の事――。
 何も言わないなら、そのままにしておこうと思っていた。
「あたし、あんたの事……」
 チエが私の目を見つめてくる。子供とは思えない、大人びた表情をする。
「――ああ」
 私はそっとチエの頭を抱く。
 チエは力を抜いて、私にもたれかかってくる。
 私は冷静に考える。
 チエの心の中に、私と会う事でゆらぎが生じ始めている。
 そしてわずかではあるが、私の心の中にも――。
 私がチエにしてやれる事はなんだろう?
 何度考えてみても、答えはひとつだった。
 私はチエの事が好きだと思う。
 でもそれは、単に私が誘惑に流されている事の言い訳だとも思える。
 チエは私の事を好きだと言ってくれる。  
 でもそれは、チエの境遇を知った上での私の言動に、誘導されているだけかもしれない。
 結局、私とチエでは純粋な恋愛感情は生まれようがない。
 出会った時から、それは確定していたのだろう。
 だから私は、距離を取らなければならない。
 ゆらぎを、遠ざけなければならない。
 低確率でもチエが悲劇を繰り返す可能性があるならば、その確率を低減するのが、私の義務だろう。
 私はチエの頭をもう一度なでて、身体を離す。
 新しい煙草に火を点けて、背中を向ける。
 チエは何も言わなかった。
 もう二度と会う事はないだろう。
 私はざらついた足音を引きずって、車に戻る。


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